前回から少し間が開きましたが、引き続き鳥取県の名前の由来について雑学を深めていきたいと思います。
一般的には「江戸時代の鳥取藩が明治に入って鳥取県になった」と思われがちですが、「鳥取藩」という名称が公式に使われたのは江戸時代では
なく実は明治に入ってからだったというのが、前回お伝えした雑学でした。 実際、明治2年の版籍奉還に際し、池田慶徳侯が天皇から「鳥取藩」の藩知事に任命されたとき、鳥取藩という公式名称が生まれたのです。でも、 なんで「鳥取」藩なんでしょうか?−−今回は、こんな疑問をテーマにしたいと思います。。 「藩」という言い方は、正式ではないにしろ、江戸時代の後半から広く使用されるようになっており、もちろん「鳥取藩」という名称も使われて いました。しかし同時に、「因州藩」や「因幡藩」という呼び方もあった のです。というか、これらの呼び方のほうが、鳥取藩よりも普通に使われていたようです。 例えば、国立国会図書館が公開している『日本法令索引[明治前期編]』というデータベースで明治元年の法令文書を検索してみると、そのタイト ルに「因州藩」が出てくるのは5件で、「因幡藩」が出てくるのは7件。これに対して、「鳥取藩」が出てくるのは『鳥取藩重臣・・・警備セシム』 など2件だけです。 国の正式文書でさえ藩名が一定してないのはすごいなあと思いますが、ここでのポイントは「鳥取藩」という名称の影の薄さ。よく使われていて なじみ深い名称を採用するという、今なら常識的な選び方がされていたら、鳥取藩(ひいては鳥取県)という名は選ばれていなかったかもしれません。 では、どうして「鳥取藩」に決まったか?−−と問いは大げさですが、答えはいたって単純。少し乱暴な言い方をすると、「中央政府が勝手に決 めた」のです。そして、その名前を決めた基準は、「藩庁所在地の名前をそのまま藩名にする」というものでした。 版籍奉還を行い新たに藩知事が任命されたのが274藩ですから(明治2年6月17日から8月3日にかけて)、明治維新の激動のなか、個々の 藩の事情を考慮して藩名を決めるなんてありえなかったのかもしれません(幸い、「藩庁所在地の名前を藩名に」という決め方は、そんなに不満の 出ない基準だったと思いますが)。 いずれにせよ、市町村合併の際、住民投票などたいへんな苦労を経て新たな市町村名を決めている最近の状況から考えると、やっぱり隔世の感が あります。 近年、国主導で道州制の議論が進んでいますが、その中身はもちろん名前ひとつをとっても、地域の声をよく聞いて検討を進めてほしいものだと、 歴史を振り返りながら考えてしまいました。 |
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