これまでの2回で、鳥取藩という名称が公式に使われたのは実は明治時代になってからであること、その藩名は藩庁所在地に由来していることを
ご紹介しました。そこで今回は、鳥取藩から鳥取県へ変わったときの事情についてお伝えします。 といっても、鳥取県の場合、答えはとても簡単ですね。「廃藩置県で藩が県に変わっただけ」です。明治4年以後、島根県と統合した一時期を除 いて、一貫して鳥取県という名称が使われてきました。 ただ、全国的には決して、それが当たり前だったわけではありません。「廃藩置県後の明治4年11月に、3府302県が3府72県に統合されま すが、この72県のうち旧藩名が残されたのは、鳥取県を含めわずか13県しかありませんでした。 第1回目でも紹介した勝田政治氏の『廃藩置県』(講談社)によると、政府の基本方針は、旧藩との関係を断ち切る意図から旧藩名の使用を極 力避け、郡名(町村名、山川名)を採用するものであった」ということです。 ちなみに、中国5県の場合を見てみると、鳥取・岡山・広島・山口の4県が旧藩名を引き継いでいるのに対し、島根県だけは新たな名称がつけら れています。 島根県という県名は、明治4年11月に松江県・広瀬県・母里県と隠岐国が統合されたときに名づけらたものです。島根県庁のホームページでは、 「それまでの県名が使われなかったのは、明治維新の際に松江藩が消極的な立場をとったためであると言われています」と紹介されています。 この紹介にもあるように、明治政府は維新に協力した「忠勤藩」には旧藩の名を県名として使わせ、逆に「朝敵藩」には罰として旧藩名を使わせ なかった、という説(宮武外骨『府藩県制史』)も出されています。 それに従うと、鳥取県という名が今あるのは、藩主・池田慶徳が将軍・徳川慶喜の兄であるという苦しい事情にも関わらず戊辰戦争で朝廷側につ き維新に貢献したことへのご褒美だった、ということになるのでしょうか。真偽のほどは定かでありませんが、旧藩名が県名に残った県の多くが「忠 勤藩」であったことは確かです(例外もあります)。 いずれにせよ、上で紹介したように明治政府の基本方針が「郡名(町村名、山川名)を採用する」であったことからすれば、「鳥取県」ではなく、 例えば「邑美県」とか「千代県」といった県名になっていた可能性もあったのかもしれません。 このように、「鳥取藩から鳥取県へ」という一見単純に思えることでも、その背景を調べるといろんな事情が隠されていて、歴史の奥深さを感じま す。 |
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