勝連城址(世界遺産登録) 琉球王国が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した有力按司(あじ)阿麻和利(あまわり)が居城した城と伝えられる勝連城跡は、沖縄の城の中でも最も古く、12世紀頃 と伝えられている、現在の規模になったのは14世紀ごろ。阿麻和利は護佐丸を滅ぼし、さらに琉球統一をめざし国王の居城である首里城を攻めましたが落城して滅びました。 沖縄のグスク(城)が各地に盛んに造られたの12世紀中期〜15世紀初期までであり、そのグスクの主を按司(あじ)と呼んだ。その各地の按司の抗争・統合の中から、それぞれ3つの小国にまとまった時代が三山時代である。 三山とは、沖縄県北部の北山(今帰仁城)、中部の中山(浦添城)、南部の南山(大里グスクと言われている)を指す。 1422年、中山の尚巴志(しょうはし)により三山が統一される。 |
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三の郭は広々としていて芝生が敷かれている。階段は二の郭に上るための階段です。幅の広い階段が3箇所ある。 | 一の郭で最初に目に入るった「玉ノミウヂ御嶽」です。勝連城を守る霊石です。 | 一の郭から南方向を見る、眼下に中城湾が、その先の知念岬か。 | |||
15世期中頃、勝連城の阿麻和利(あまわり)による侵攻に備え、首里王府の命を受けた護佐丸が増改築した。 6つの郭からなる壮大なグスク(城)を完成させた、1458年、護佐丸は阿麻和利の策略で滅び中城城も衰退する。 城壁の素晴らしさや、野面積み、布積み、相方積みと3種類の石積みが施されているなど歴史的に貴重であるようだ。 |
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西に向かって建てられた正門櫓門(櫓門) |
東に向かって建てられた裏門 ペリー探検隊一行がエジプト式と評した精巧なアーチ |
二の郭 一の郭と二の郭の石積み技法はは布積みである |
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カンジャーガマ(鍛冶屋跡) 鍛冶を行っていたところとされているが、城のためか集落のためか定かではない。 |
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野面積み:南の郭 野面とは、加工していない石の事。その名の通り、自然の岩や石をそのまま組み合わせる、最も古い技法 |
布積み(別名、豆腐積み):一の郭、二の郭 直方体に加工した石を、一段ごとに高さを揃えてブロック状に積み上げる。門の周辺にもこの技法が用いられており、 大きな石を積む事で強固に仕上がっている |
相方積み(別名、亀甲乱積):三の郭、北の郭 石を多角形に加工し、互いに噛み合うように積む技法。強度と耐久性に富む。護佐丸の時代に築いたとされる裏門に面した三の郭と北の郭に見られる |
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