因幡国(いなばのくに)は、かつて令制国(律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分)の一つ(奈良・平安時代)。
- 古くは稲葉国造(大化の改新以前より、因幡国の有力な在地首長一族)の領域であったとされる。令制国としての因幡国は7世紀に成立した。
- 因幡国は「大宝令」にいう4等級の国別では2番目の上国に属し、7郡50郷に組織された。
郡は、 巨濃郡、法美郡、八上郡、八東郡(平安時代末期に八上郡より分離)、智頭郡、邑美郡、高草郡、気多郡
美穂地区が該当する高草郡の郷は
神戸(かんべ)、倭文(しとり)、味野、古海、能美(のみ)、布勢、野坂、刑部(おさかべ)
- 因幡国はかっての稲葉国造の支配領域に相当し、国造の保有していた軍事権・裁判権・土地領有権、徴税権などは祭祀権を除きいずれも律令国家(国司)によって掌握された。
- 国造をはじめとする在地首長層は郡司などとしてあらためて律令制支配機構の末端に組織されていった。
- 国・郡ごとに国司・郡司の政庁たる国衙(国府)・郡衙(郡家)が置かれた。
- 因幡国府は法美郡稲葉郷(現国府町中郷)に、国府周辺にはのち国分寺も創建された。また、郡衙跡は気多郡衙(現気高町)・八上郡衙(現郡家町)と推定される。
- 室町時代は因幡山名氏の一族が因幡国の守護を務めたが、周辺の但馬や伯耆の山名家と比べて、守護家の支配基盤は脆弱であった。
- 戦国時代も因幡山名氏の支配が続くが、因幡山名氏の勢力が内紛などで衰えたため、因幡は織田・毛利の争乱の地となる。また、毛利氏と手を結んだ武田高信が勢力を拡大したが、一国を支配する大名までには成長しきれなかった。
- 羽柴秀吉により鳥取城が陥落してからは因幡一国は織田氏の支配下に置かれた。
- 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男(輝政の弟)の長吉が6万石で入封し、鳥取藩が立藩した。
- 江戸時代初期は複数の大名(鳥取城:池田長吉、鹿野城:亀井茲矩、若桜城:山崎家盛)に分割された
- 元和3年(1617年)池田光政が播磨姫路42万石から因幡・伯耆両国に転封となり、これに伴い池田長幸(長吉の子)は備中松山に、山崎氏は備中成羽に、亀井氏は石見国津和野にそれぞれ転封された。
- その後は明治維新まで池田氏が鳥取藩32万石の大名として因幡を支配した。
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